プレスリリース

高性能DBFアンテナの実装規模を1000分の1*7に縮小
― 頭脳を持ったアンテナの実現へ向けて ATR・KDD共同で試作 ―

(株)ATR環境適応通信研究所
(株)KDD研究所
  平成12年5月10日

1. 概要と背景
 近年,携帯電話に代表される移動体通信は著しい発展を遂げ,近い将来,例えば無線を介してどこでもパソコンがインターネットに接続されて,マルチメディアコンテンツのやりとりをしたり,携帯端末で音声のみならず,画像などのやりとりが可能となることが予測されます.しかしそのためには,現在の移動体通信システムとは比較にならない高速通信が無線リンクを介して実現されなければなりません.
 そのとき問題となる現象のひとつに,フェージング* 1があります.フェージングは,低速な通信ではあまり問題になりませんが,高速通信では,一定の時間内に送信される情報の量が多いため,それに対する相対的な遅延信号の遅延量が大きくなり,高速な通信を行う程その影響は深刻なものとなります.そのため,無線通信の高速化に限界があり,フェージング現象を克服する技術が必要となります.
 このようなフェージング現象への対策として,近年のディジタル信号処理技術の発展と相俟って,頭脳を持ったアンテナ,DBF (Digital Beam Forming)アンテナ* 2が注目を集めています.
 しかし,現在までのところ,フェージング対策のような複雑な信号処理を行うDBFアンテナの実現を考えると,そのために必要となるディジタル信号処理のための計算量は膨大なものとなり,現状のディジタル信号処理のための素子を用いた装置化は容易ではありません.高性能な適応制御機能を残したまま,現実的な規模でその機能を実現する装置を作るための工夫が,実用化のカギとして大変重要な問題となっています.
 (株)ATR環境適応通信研究所では(株)KDD研究所と共同で,このような問題を解決するため,サブバンド信号処理* 3に基づくDBFアンテナを,DSP* 4を用いて試作し,大型電波暗室内で検証実験を行いました.サブバンド信号処理を応用したDBFアンテナの試作は世界最初の試みであり,従来の構成では非現実的であった高性能DBFアンテナを,限られたハードウェアリソースで実装できることを実証しました.市販のDSPを5個* 5用いて,試作機の製作を行ないましたが,これを従来の方法で同様の性能を持つDBFアンテナの装置化を行なうと,約5000個のDSPが必要となり,その実現はほとんど不可能であったものです.
2. 特徴
 (株)ATR環境適応通信研究所にて開発したDBFアンテナは,サブバンド信号処理を応用することで,通常非現実的な計算負荷を要求するフェージング環境に対処できる高性能なDBFアンテナを,比較的限られたハードウェアリソースで実現したことを最大の特徴としています.サブバンド信号処理のアダプティブアレーアンテナへの応用は従来から知られておりますが,本開発では計算量削減の観点からその応用形態と性能について研究を行い,得られる性能を明らかにした後[1],ハードウェア実装を行いその規模の削減効果を明らかするとともに,性能の実証を行ないました.これにより,各サブバンドで並列に信号処理が行えることになり,DSPやFPGA* 6で制御アルゴリズムを実装するとき,そのハードウェアリソースを有効に活用することができます.
3. 原理
 DBFアンテナは,フェージングによって乱され,ばらばらに到来するそれぞれの信号を取り込んで,タイミングを調整して合成する機能を持っています.従来のアンテナでは,時間の軸でこのような遅延を観測し,遅れて届いた信号を合成したり,反対に取り除いたりしていました.サブバンド信号処理を応用したDBFアンテナは,これに対し,受信した信号を時間の軸で見ず,周波数の軸に変換して操作します.一般に,無線通信に使われる信号は,周波数の軸の上で幅を持っています.サブバンド信号処理を行うアダプティブアレーは,その信号の持っている周波数軸上の幅(これを帯域幅と呼びます)を,さらに細かく切り分けます.このように元の信号の帯域幅を分割することにより,それぞれの帯域で独立に信号処理を進めることができます.結果として信号処理が,時間軸で見ていたときよりやりやすくなり,また,信号処理を実行する計算機への負荷を軽減することができます.このような手法により,効率的な信号処理を行うDBFアンテナを実現しています.
4. 試作装置の諸元
試作装置の主要な諸元を以下の表に示します.試作装置外観を写真1及び2に示します.

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5. 期待されるメリット
 近い将来に見込まれる,DSPやFPGA等のディジタル信号処理デバイスの急速な進歩と,効率的な信号処理手法を組み合わせることにより,比較的小規模なハードウェアで高性能DBFアンテナの通信システムへの実装が可能になります.例えば,8素子で32のタップを用いた高性能アダプティブアレーを,サブバンド信号処理で用いて実装した場合,その計算量は,従来の方法で実現した場合に比較して約1000分の1* 7に低減することができます.このように効率的に実装されたアダプティブアレーを移動体通信システムの基地局側に応用した場合,フェージングの影響が軽減されるため,高速通信が可能となり,また端末の省電力化,小型化が可能となります.
【参考文献】
[1] 神谷幸宏,唐沢好男:“時間及び周波数領域信号処理を行う適応型アレーアンテナの種々の構成における特徴比較と収束と収束特性改善”,信学論 A Vol. J82-A No. 6 pp. 867-874 1999年6月.
* 1 マルチパスフェージング:ひとつの送信アンテナから送信された電波が,受信アンテナに届く前に,いろいろな経路をたどって様々な場所でランダムに反射を繰り返し,それらが合成されて受信される現象を言い,これにより通信の品質が劣化します(下図参照).

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* 2 DBFアンテナ:アレーアンテナを構成する複数の素子アンテナで受信されるそれぞれの信号を,ディジタル信号処理を施して合成することにより,希望信号の到来方向にアンテナの感度を高くし,干渉信号の到来方向に感度を0として,それらを空間的に除去するといった空間領域の信号処理を行う機能を持つアンテナです.また,このような処理を,ディジタル信号処理技術を応用して行うことにより,時々刻々と変化する環境に自ら適応し,たとえ環境が変化しても,常に高い通信品質を維持することができます.さらに時間領域の信号処理も同時に行うことにより,マルチパスフェージング環境において,フェージングによって遅延して到来する信号を取り込んで合成し,信号対雑音電力比(SN比)を改善することも可能です.このため,次世代高速移動体通信システムは,近未来のマルチメディア移動体通信システムのような高速無線システムにおいて,重要な要素技術となるものと考えられています.従来のアンテナと,最新のディジタル信号処理技術の融合による,“頭脳を持ったアンテナ”ということができます.
* 3 サブバンド信号処理:もともと音声帯域の信号処理に用いられていた手法であり,ある帯域幅を有する受信信号を,サブバンドと称する複数のより狭い帯域に分割し,サブバンド毎に信号処理を独立に行う手法です.サブバンド信号処理のDBFアンテナへの応用にはいくつかの形態が存在しますが,その中で特に計算量の観点で有利となる構成を文献[1]に明らかにしています.
* 4 DSP:Digital Signal Processorの略.コンピュータのCPUに対し,特にディジタル信号処理に必要な演算機能の性能を強化した演算装置.
* 5 5個のDSP:帯域分割FFT,帯域合成逆FFT及び適応制御アルゴリズムを実行するDSPの数であり,データフロー制御用などのDSPの数は含んでいません.
* 6 FPGA:Field Programmable Gate Arrayの略.現場でソフトウェアによって演算の内容を書き換えることが可能なゲートアレイ.
* 7 計算量が1/1000:適応制御アルゴリズムにRLS (Recursive Least Squares)を採用し,8素子アレーアンテナを用いて32のサブバンドに帯域分割を行なった場合の乗算の数で比較.非常に多くの重み係数(DBFアンテナのパラメータ)を制御するとき,それらを一つの制御アルゴリズムで一括制御するとその重み係数は膨大となってしまいますが,サブバンド信号処理を適用したDBFアンテナはそれらを複数の制御アルゴリズムに分配して制御することができるために,このような大幅な計算量削減を実現することができます.


※(株)ATR環境適応通信研究所は、2001年に研究プロジェクトを終了しております。